夏島(デュプロン島)
戦跡巡り

メチェンという素晴らしい習慣

戦艦武蔵の大きな錨の跡にビックリしてしまいます夏島戦跡巡りへはボートで向かいます。途中戦争当時 チュークに入港していた戦艦武蔵(大和もいたそうです)のとっても大きな錨部分が浅瀬に座礁しているポイントにも立ち寄っていただけます。直系5m近くはある大きな円柱の錨部分なので、これだけでもデカイ!と思うのですから船そのものは果たしてどれだけ大きかったんだろう。と想像も付きません。戦跡モードへ一気に突入です。(写真参照ください。)

”メチェン”というチュークの風習を素晴らしく思います夏島へ上陸する際に面白いチュークの風習を目の当たりにします。浅瀬の箇所に目印となるように竹の棒のようなものを突き立てているところが転々とあります。ここからここまでという海域の線引きをしているものとの事で、これは島の力のある人がこのエリアでの漁の禁止。もちろんツーリストが立ち寄ってシュノーケリングやダイビングなどする事も一切認めていない言わば立ち入り禁止区域との事。

一時はそのエリアに入れずに不便はするけれども、長い目で見ればその間(いつまでという期間は決まっていなく、1年を超える事もあるようです)に海の自然が戻り、珊瑚や魚が戻って豊な暮らしが出来る。という考えからの事で現地の言葉でメチェンと言うのだそうです。ローカルの海の自然と共に共存共栄していく素晴らしい考えに触れることが出来ます。日本であれば目先の経済効果を優先する為、この様な事は必要と思っていてもきっと出来ない行為と思ってしまいます。

戦跡のストーリー「デュプロン島(夏島)」

樹齢60歳のマンゴーの大木の話し夏島へ上陸です。直ぐのところに今ではその土台部分しか残っていませんが、これは当時海軍病院で働いていた方の住まい跡だそうで、こちらはお風呂・あそこは炊事場・・・と説明を受けます。これは実際当時こちらに赴任されていた女性が慰霊の為に夏島にいらした時にガイドの末永様も教えて頂いたので詳細に分るのだそうですが、当時植えた小さなマンゴーの木もこんなに大きくなって、樹齢60歳ですので大木に成長してます・・・とビックリされていらしたそうです。

私は内科出身。あなたは外科出身!日本軍は夏島の幹線に幅20mくらいの道も島に巡らせて舗装していたようで、その道をゆっくりと歩いていきます。途中石垣や住居跡・大きな貯水タンクなども目にします。この夏島に鉄道も巡らそうという計画もあって、鉄道の線路も何本かその名残として残っており、かなりこの夏島を軍では重要拠点として考えていた事が伺えます。実際その鉄道は開通しなかったようですが・・・。

海軍病院跡で面白い話をお聞きします。病院なので内科や外科があったエリアが当時あったのですが、その呼び方がそのまま夏島の住所名になっているとの事で、私は内科出身。あなたは外科出身。などある様です。その他にも「公園」や「学校」なども地名として夏島では利用されているようです。

夏島には遊郭もあったんです

司令部たちの3重の頑丈な防空壕やトイレの跡なども残っています道路には側溝も造られていて雨が多い島ならではの整備もされてます。自動車の修理工場跡(車の下に潜って作業をしやすいように、駐車される車の下部分にちょうど掘りごたつのような考えで穴が四角開けられていて機能的です。) また司令部達の頑丈なコンクリートで出来た防空壕跡も見れます。なんと3重の扉です。

そのエリアでは兵隊さんたちが利用していた風呂場跡もあります。縦3m・横2m・深さ1mくらいのとても小さなお風呂で、暑い島ですしこんなんじゃとてもさっぱり。何ていう気分にはならないんでは・・・なんて思ってしまいます。兵隊さん達が当時利用していたトイレ跡もあるのですが、なんとその上に民家が建てられていて、有効利用というか(ウン)の付いた家というか、可笑しくなってしまいます。

日本から遊郭もあったそうですそのエリアからしばらくすると当時遊郭があったエリアが続きます。強制的に日本から連れられて来たのかと思ったのですが、そうではなく商いとして日本からやってきた人たちだったそうで、ビックリです。その近くの山の斜面にはいくつも穴が開いているのですが、これらは彼女達の防空壕で、3重の扉の付いた頑丈なコンクリートの防空壕とはレベルが違います。

夏島には雑誌のお店・商店・料亭・建設会社などもあったそうで、夏島の戦跡めぐり前までは、戦跡がちらほらとある程度の島と思っておりましたが、これは夏島全体が海軍司令部の拠点でとんでもなく大きなリトルジャパンの島になっていた事をうかがい知れます。となると、夏島のローカルの人達は一体どうなっていたのだろう。・・・土地を追いやられて生活をしていたそうです。戦争という名の元に何でも有りで、同じ日本人として本当に申し訳ない気持ちになってしまいます。

「チョメチョメバシ」と「トツゲキ1号」

チョメチョメ橋とトツゲキ1号のお話し海軍の兵隊さんが夏島に上陸すると遊郭へ向かったそうですが、港からその遊郭への道に橋がかけられている箇所があります。名前を 「チョメチョメバシ」というのだそうです。英語でも「チョメチョメBridge」ではなく、「チョメチョメバシ」として紹介されています。チョメチョメというのはSEXの事で、兵隊さん1人に付き1つのコンドームも渡されてこの橋を渡って遊郭へ向かう事から、チョメチョメバシという造語が出来たのだそうです。そしてそのコンドームの事を「トツゲキ1号」と呼んでいたそうで、何とも面白い話も聞かせていただけます。

ゆかりの地へ訪れるチューク慰霊ですそのチョメチョメバシを渡って直ぐのところに等間隔に背の高い椰子の樹が植えられています。規則正しいのでオヤ?と思ったのですが、これは当時こちらにいらした日本人が植えたものだそうで、その息子さんが慰霊で島を訪れた際に、これは父が植林したものと聞いていたので夏島へやってきました。と末永さんも観光時にお客様から聞かされてお知りになったとの事。ですので、この椰子の樹も年齢は60歳以上です。

夏島(デュプロン島)は大切な戦争の語り部の島今度もし訪れる機会があれば、出来れば当時を知るローカルの方からも話をお聞きしてみたいです。きっと日本兵はひどい事を彼らにしたと思いますので、嫌な感情をお持ちになっていると思うのですが、ただ、先の内科・外科の住所もそのまま引き継いでいるくらいなので、親日という面もあるのでは・・・と思ってしまいます。お隣のポナペ島でも、戦後平和になって日本から兵隊さんがくるという話を聞いたローカルの方が、ソケースマウンテンの途中にある砲台エリアを皆で草刈して待っていてくれた。という話をお聞きした事があるくらいですので・・・。

僅か2時間程度の島半分も訪れていませんが、とても多くの話しを交えて夏島巡りをさせて頂けます。話がなければ、ただの夏島ハイキングになってしまいますので、とても意味深い島巡りになります。是非こちらの夏島へも訪れて頂きたいです!

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